小川山岡鉄舟会趣旨
  活動内容
  小川山岡鉄舟会活動の記録一部
「小川町と鉄舟のかかわり」について
【1】 山岡鉄舟について
【2】 割烹旅館二葉の名物「忠七めし」について
【3】 小川の書や幟旗について
  現在の鉄舟の取り上げられ方
  お問い合わせ
「小川町と鉄舟のかかわり」について
【1】山岡鉄舟について

山岡鉄舟は本名小野鉄太郎で、山岡家に養子にいきましたので山岡鉄太郎です。後山岡鉄舟。
小川町には小野家の知行地があり、140石位でした。総高約900石で、紹介には600石とありますが、埼玉県県史編纂の知行調べを見ますと900石になっています。鉄舟は嫡男ではありませんので、当然小野家を相続しておりません。それで知行調べには名前は出て参りません。小野家の知行は埼玉県小川町をはじめ寄居町・茨城県鹿島市に渡っていました。

さて、鉄舟の一生を振り返ってみましょう。
幕臣時代
天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の五男として生まれる。母は鹿島の塚原磯女。9歳より久須美閑適斎より神陰流剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、10歳から17歳までを飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。
安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久3年(1863年)、浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。浪士組は新徴組として再組織される。この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。

慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。3月7日に江戸を戦火から救うべく、徳川慶喜の命を受けて薩摩藩士益満休之助を伴い、決死の覚悟で3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)にたどり着き、単身で西郷と談判。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩いていったという。 西郷との談判において江戸無血開城の基本条件五ヶ条(徳川家存続他)について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。ちなみに江戸総攻撃の日は3月15日であった。5月、若年寄格幹事となる。


明治維新後

明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。静岡藩権大参事(副知事)となり、清水次郎長と意気投合、「精神満腹」を揮毫して与えた。お茶の開墾にも力を注ぎ、茶処静岡の基礎を作った。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束通り致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に任ぜられる。

剣・禅・書の達人として知られる。明治維新後も剣術の修行は続けており、明治13年3月30日大悟の後、浅利義明より一刀流の免許皆伝を許され、一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた。現在は第七世が継いでおられる。

独特の書風を確立し、人からの依頼が多く、また書を以て各地の廃寺を再興したりで、全国で鉄舟の書を見ることができる。一説には生涯に100万枚書したとも言われている。 写経は欠かさず、死の前日まで行っていた。

また禅は13歳のころより志す。参禅は、埼玉県芝村(川口市)長徳寺・願翁、静岡県三島の龍沢寺 星定和尚、京都相国寺・独園、同天龍寺・滴水、鎌倉円覚寺・洪川の五和尚に参じ、明治13年3月30日大悟し、天龍寺・滴水和尚の印可を受ける。禅の弟子に三遊亭円朝らがいる。明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53歳。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。全生庵には、鉄舟の書をはじめ牡丹灯籠などの怪談落語を確立した三遊亭円朝が収集した幽霊画が所蔵され、一般に公開されている。

ところで、いつも疑問に思いますのは、鉄舟関係の本の中で小川町がほとんど取り上げられていないと言うことです。今まで著者の方に情報が届いていなかったので致し方ないと思いますが、不思議なことです。
 さて、鉄舟がいつ頃小川町に来ていたかは定かではありませんが、鉄舟のひ孫で先年亡くなりました小川町在住成川勇治氏の話を元に推測いたしました。

1. 成川勇治氏の父は成川武男と言いまして山岡直記(鉄舟長男)の子供でしたが、故ありまして2歳の時(明治27年生まれ)小川町の鉄舟の知行地の名主成川家の長男成川忠治郎が東京から連れてきました。

成川武男は山岡姓でなく成川姓で成人し結婚しました。その長男として生まれたのが成川勇治氏です。勇治さんは義理のおじいさんの忠治郎さんから鉄舟のことよく聞いていたそうです。子供の頃で、正確ではないと思いますが。

2. 鉄舟は22~24歳頃から小川によくきていたそうです。書道用の和紙を求めたのか(小川は和紙の産地です)。食料調達か。鉄舟が30歳位の時に、忠治郎が16歳で鉄舟に弟子入りしたそうです。当然弟子に食べさす米などないので、よく小川から米を運んだそうです。

3. それから清川八郎が暗殺された頃、鉄舟もクローズアップされたので、刺客に狙われていたそうで、その時小川に身を隠していたとも言われています。たぶん知られていない土地だったのでしょうか。

4. 鉄舟は忠治郎にお前のふるさとは良いところだ、一緒に行きたいものだとよく言っていたそうです。それが実現したのが、明治元年です。彰義隊と新撰組の残党が埼玉県の飯能市に結集し政府軍と激しい戦いがあり、「振武軍」500人・官軍3000人でした。この戦いを飯能戦争と言います。最後には鉄舟がおさめにきたようでした。  

そこで後年商人で大成功します平沼専造に会います。本によると専造とはもっと後に会うことになりますが。専造はここで木材を運ぶ「木流し人足の元締め」をしていました。そしてその時忠治郎と共に小川入りしたそうです。

5. 鉄舟の長男である直記も度々小川町を訪れていたようです。直記の書なども残っておりますが、目立った話は残っておりません。

1848 1846 1845 1844 1843 1836 西暦
嘉永元年 弘化3年 弘化2年 弘化1年 天保14年 天保7年 和暦
13 11 10 9 8 1 年齢
禅を学ぶ志を起こす 富田節斎に習字と
素読を学ぶ
父飛騨郡代として赴任
父母とともに飛騨へ
久須美閑適斎に剣法
を学ぶ
観音を信仰する 小野朝右衛門の五男
として江戸にて誕生
山岡鉄舟 山岡鉄舟略年表
1843 1841 1840 1835 西暦
天保14年 天保12年 天保11年 天保6年 和暦
9 7 6 1 年齢
兄静山と槍術の試合
をなし勝つ
武術の上達めざまし
く、大人といえど及
ぬこと多し
母の父高橋義左衛門
に槍・太刀を学ぶ
山岡市郎右衛門の
次男として江戸小石
川にて誕生
高橋泥舟 高橋泥舟略年表
1849 1848 1846 1845 1844 1843 1840 1838 1833 1831 1829 1823 西暦
嘉永2年 嘉永元年 弘化3年 弘化2年 弘化1年 天保14年 天保11年 天保9年 天保5年 天保2年 文政11年 文政6年 和暦
27 26 24 23 22 21 18 16 12 9 7 1 年齢
書肆岡田屋嘉七のもと
で読書生活
蘭書「ヅーフハルマ
を二部写し、一部を売っ
て生活費にあてる
本所より赤坂田町へ
転居
永井青崖について蘭
書研究・結婚
佐久間象山を訪問 剣術免許を受け、諸
藩邸を巡回
牛島弘福寺で修禅 家督を相続。島田
寅之助道場へ入門
勝海舟 男谷信友につき
剣術の稽古始める
読書通学 将軍家慶の五男初之丞
側近となる
江戸本所誕生
 名義邦 麟太郎
勝海舟略年表
1863 1862 1860 1859 1858 1857 1856 1855 1854 1853 1852 1851 1850 西暦
文久3年 文久2年 万延元年 安政6年 安政5年 安政4年 安政3年 安政2年 安政元年 嘉永6年 嘉永5年 嘉永4年 嘉永3年 和暦
28 27 25 24 23 22 21 20 19 18 17 16 15 年齢
浪士隊を率い京都へ
清川八郎暗殺される
浪士取締役になる 清川八郎と
「虎尾の会」結成
安政の大獄
清川らと尊王攘夷党
を結ぶ
「宇宙ト人間」の一編
を作り、自身の進むべき
方針を立つ
剣禅二道に精進する
「修身要領」を作る
講武所世話役となる 講武所に入り、千葉秀作に剣、山岡
静山の槍を学ぶ。静山の死により、
山岡家の養子となり妹英子と結婚
ぼろ鉄と呼ばれる 井上清虎に隋学
北辰一刀流玄武館で学ぶ
父病没。飛騨を離れ
江戸に向う
母礒病死。井上清虎
飛騨に到着
三月岩佐一亭に入門
十月入木道五十二世を伝
授される
山岡鉄舟略年表
1863 1862 1857 1856 1855 1854 1853 1851 西暦
文久3年 文久2年 安政4年 安政3年 安政2年 安政元年 嘉永6年 嘉永4年 和暦
29 28 23 22 21 20 19 17 年齢
小笠原壱岐守に国
事を論じ、感嘆さ
す。浪士取締役扱
兼師範役を命ず。
従五位下伊勢守に
叙せられる
講武所師範兼二の丸
留守居格布衣となる
連日兄静山と槍術の
試合の夢を見る
講武所槍術教授方
出役となる
兄静山死去。名を精
一と改める
父病没 ペリー来航。勤王・
佐幕の志を起こす
母方の高橋家の養子
となる
高橋泥舟略年表
1862 1861 1860 1859 1857 1856 1855 1854 1852 1850 西暦
文久2年 文久元年 万延元年 安政6年 安政4年 安政3年 安政2年 安政元年 嘉永5年 嘉永3年 和暦
40 39 38 37 35 34 33 32 30 28 年齢
軍艦奉行。坂本龍馬
が門下になる
講武所砲術師範役 咸臨丸でアメリカへ
 (五ヶ月間)
軍艦操練所教授方頭取
赤坂元氷川に転居
四書五経の指導を
受ける
講武所砲術師範役 番書翻訳勤務
長崎海軍伝習生徒監
海防意見書を提出 長男小鹿誕生 蘭学塾を開く 勝海舟略年表
1874 1873 1872 1871 1870 1869 1868 1866 1865 1864 西暦
明治7年 明治6年 明治5年 明治4年 明治3年 明治2年 明治元年 慶応4年 慶応2年 慶応元年 元治元年 和暦
39 38 37 36 35 34 33 31 30 29 年齢
・西郷説得の為九州へ
・宮内省庶務課長となる
・「全生庵」の扁額を
 贈られる
宮内小丞となる
西郷職を辞す
西郷などの推挙により侍
従に。侍従番長になる。
三島龍沢寺星定禅師に
参禅続く
・茨城県参事
・伊万里県権令
静岡に在って旧幕臣善
後処置に尽力する
龍沢寺星定禅師に参禅
徳川家静岡藩に決定
静岡藩権大参事
清水次郎長と相識
・精鋭隊頭となる。
・三月 西郷と静岡にて
 江戸開城の談判をし
 成功する

・山岡家の家督を継ぐぎ
 大目付になる
・四月彰義隊解散に尽力
 するも、果せず
・若年寄格幹事を申付け
 られる。駿府へ
鉄舟山岡高歩と署名
する。鉄舟初見。
長男 直記誕生
川口の願翁禅師に参禅
一刀流浅利又七郎に負け、
その後師事する
山岡鉄舟略年表
1872 1871 1869 1868 西暦
明治5年 明治4年 明治2年 明治元年 慶応4年 和暦
38 37 35 34 年齢
職を辞し引退する 泥舟と号す
茨城・福岡県令に任
ぜんとするも受けず
田中奉行・
静岡藩大属席となる
海舟とはかり慶喜公を上
野寛永寺に退去さす。鉄
舟を西郷との交渉役に推
挙する。
榎本武揚らを静める。
ニ君に仕えずとの決意か
ら、世に出ない
決意をする。駿府へ
高橋泥舟略年表
1873 1872 1871 1870 1869 1868 1867 1866 1864 西暦
明治6年 明治5年 明治4年 明治3年 明治2年 明治元年 慶応4年 慶応3年 慶応2年 元治元年 和暦
51 50 49 48 47 46 45 44 42 年齢
参議海軍卿 静岡より赤坂氷川町へ
海軍大輔
廃藩置県 徳川家達から退身を止め
られる
徳川家静岡藩七十万石
に決定。旧幕臣と移住
安房と改名
海軍奉行
江戸薩摩藩邸において
西郷隆盛と江戸無血開城
の取り決め。鉄舟も同席
する。
明治と改元。駿府へ
長男小鹿を米国に留学
させる。龍馬暗殺
会津・薩摩を調停し
征長出兵辞退に成功
安房守となる
西郷隆盛と初めて会う
勝海舟略年表
1885 1884 1883 1882 1881 1880 1879 1878 1877 1876 1875 西暦
明治18年 明治17年 明治16年 明治15年 明治14年 明治13年 明治12年 明治11年 明治10年 明治9年 明治8年 和暦
50 49 48 47 46 45 44 43 42 41 40 年齢
石川県永光寺の再建の
ため尽力する
書法について執筆


・「一刀正伝無刀流」
 とする
白隠禅師の国師号賜に
尽力して、徴号される
・普門山全生庵開く
 葵正観世音菩薩を
 本尊として。
・清水鉄舟寺の再興   
・長野正案庵再興も
 発願する
宮内省を辞すも、終生
御用係りを仰せ付けら
れる
正四位に叙せられる
岩倉具視の依頼で
「西郷との談判記」執筆
宮内少輔に任ぜられる
正五位に叙せられる


・本郷麟祥院にて
乞食供養をする
三月三十日 大悟徹底し
滴水禅師の印可を受ける
剣無敵の極地に到る。
無刀流を開く。
国泰寺の再建のためさらに
屏風を千双揮毫
国泰寺の再建に尽力
屏風二百双寄贈
・北陸・東海地方巡幸に
  供奉する
・富山高岡国泰寺越叟
 禅師に知己を得え刎頚
 の交わりとなる
・大久保利通暗殺
宮内大書記官となる
天竜寺滴水禅師に五位兼
中至頌を授けられる
皇后相模行啓の供。
円覚寺 洪川禅師に
参禅する
宮内大丞となる
奈良県へ勅使として派遣
山岡鉄舟略年表
1884 1880 西暦
明治17年 明治13年 和暦
50 46 年齢
鉄舟と共に長野正案庵
再興に尽力する
国泰寺の再建の
ため、鉄舟と共に
尽力する
高橋泥舟略年表
1883 1880 1879 1878 1877 1875 西暦
明治16年 明治13年 明治12年 明治11年 明治10年 明治8年 和暦
61 58 57 56 55 53 年齢
南洲七回忌に留魂祠を
建てる
三河屋書画会に出る 浄光寺内に南洲記念碑
を建立
「断腸の記」 西南の役。「亡友帖」
出版
議官に任命されるが、即日
辞職。以後氷川に籠もる
勝海舟略年表
1888 1887 1886 西暦
明治21年 明治20年 明治19年 和暦
53 52 51 年齢
・従三位に叙せられる
・春風館維持預金開始

七月十九日永眠。
「腹張りや苦しき中に暁烏」辞世
法名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」谷中全生庵に葬られる
華族に列っせられ
子爵を賜る
胃癌と診断される

旧埼玉忍藩の惨状を
知り、尽力する
大蔵経書写を発願する
このころより胃部に不快
症状現れる
山岡鉄舟略年表
1903 1902 1889 西暦
明治36年 明治35年 明治22年 和暦
69 68 55 年齢
永眠。
熱中庵殿精一貫道大居士
慶喜とあって緩々と
話をした
鉄舟の意志を継ぎ
静岡・清水「鉄舟寺」の
再建に尽力
高橋泥舟略年表
1899 1898 1897 1896 1895 1892 1890 1889 1888 1887 1886 西暦
明治32年 明治31年 明治30年 明治29年 明治28年 明治25年 明治23年 明治22年 明治21年 明治20年 明治19年 和暦
77 76 75 74 73 70 68 67 66 65 64 年齢
永眠。正二位
大観院海舟日安大居士
旭日大綬章を授与される 「全国貨幣総数大略」
を編す
内閣諸公宛に建書 三国干渉。濛六散人
と称す
長男死去。慶喜の息、
精を養子とする
貴族院議員 勲一等瑞宝章
「陸軍歴史」成る
枢密顧問官、正三位
「海軍歴史」成る
華族に列っせられ
伯爵を賜る、従三位

「吹墨録」
「吹墨余録」成る
徳川家世襲財産取定めの
ため静岡へ
勝海舟略年表