毎歳忌 鉄舟忌

8月1日 当会「毎歳忌 鉄舟忌」を開催しました。鉄舟菩提寺「全生庵」にて。
鉄舟の命日は7月19日ですが、お寺の都合がありましてこの日程で行いました。30名程の会員が参加されました。読経の後、全員で墓参しました。
毎年のことですが、この法要の頃から本格的な夏が始まります。でも今年は、早かったですね。
次回の研修会は、12月頃に「吉田松陰」について行う予定です。

「命もいらず 名もいらず」お読み下さい

当会会員山本兼一著「命もいらず 名もいらず」是非お読み下さい。幕末の動向と山岡鉄舟を理解するうえで、欠かせません。下巻の最後に山本さんの取材に協力した方たちの名が出ています。

平井正修(全生庵)・・当会顧問、坂部健(当会会長)、若杉昌敬・本林義範・栗原天路・円佛公衛・阿部一好(各当会会員)それに私八木忠太郎(当会事務局長)です。
会員の皆様の日頃の研究の成果が少しここにでたように思います。本当に嬉しいことです。山本さんに感謝申し上げます。

今評判の坂本龍馬と鉄舟は、一時期行動を共にしています。その後、それぞれの道を歩きました。詳しくは後日に致します。

八木忠太郎

小川山岡鉄舟会 入会のご案内

若き日の鉄舟 山岡鉄舟と小川町


 
小川町竹沢地区は鉄舟の父小野家の知行地であったため、鉄舟はこの地を度々訪れていたようです。それを裏付けるかのように小川町には鉄舟の壮年から晩年にかけての書が幅広く残っております。
 
また、明治維新後小川の和紙を何とか広めたいとの気持ちから小川の成川忠次郎(鉄舟の門下)が当時大変人気があった東京の森田宝舟堂の常備薬「宝舟」の包み紙としてもらうべく尽力しておりましたが、鉄舟の仲介でみごとに成就し、長い間使われていたようです。現在当館には当時宝舟用に透かしを入れるために使用した和紙の簀が残っております。
 
しかし、小川町は鉄舟の歴史の表舞台には今まで登場してまいりませんでした。それは、鉄舟が心の故郷としてこの小川を愛していたため、小川町の存在をあえて公表しなかったのではないかと思われます。先年この地で「大鉄舟展」が開催され、百余点の鉄舟の書が公表されました。

二葉楼 山岡鉄舟について
 

本名は山岡鉄太郎といい、号を鉄舟と申します。そして、剣・禅・書に熟達されたまれにみる人物でありました。父幕臣小野朝右衛門高福(六百石取りの旗本)、母鹿島神宮の社人塚原香年の娘磯との間に天保7年(1845年)6月10日、江戸本所に生まれました。

15歳の時に弘法大師の流れをくむ入木道五十二世の伝統を受け継ぎました。書は依頼が多く多い日には1日千枚以上書いていたようです。写 経は欠かさず、死の前日まで行っておりました。

<剣>9歳の時より剣の道に志し、久須美閑適斉に真影流を学び、その後井上清虎の門の入り、北辰一刀流を学びます。17歳の時父の逝去により江戸に出て、文武の道に研鑽しました。この頃より剣の修行は厳しさを増し「鬼鉄」「ボロ鉄」と言われておりました。
 
20歳の時に請われて槍術の師、山岡静山(高橋泥舟の兄)の妹英子と結婚して山岡家の養子となります。その後、さらに一刀流を極めんと浅利義明に学ぶこと数十年、明治13年3月30日(45歳)大悟し、元祖伊藤一刀斉のいわゆる一刀流無想剣の極意を得、これより無刀流を開きます。

<禅>禅は13歳のころより志します。参禅は、埼玉県芝村(川口)長徳寺・願翁、静岡県沢地村(三島)龍沢寺・星定、京都相国寺・独園、同嵯峨天龍寺・適水、鎌倉円覚寺・洪川の五和尚に参じ、ついに天龍寺・適水和尚の印可を得ました。

<業績>最大の業績はなんと言っても「江戸城無血開城」の道を開いたことです。慶応3年3月15代徳川慶喜公の使として命懸けで駿府(静岡)の馳せて、西郷隆盛と直談判して、事実上朝幕の話合いの下地を作りました。その後、西郷隆盛と勝海舟の会談がもたれ江戸城無血開城となり江戸が戦火から免れるのです。
忠七めしの釜と讃

<命も金も名誉もいらぬ男>後日、西郷は鉄舟を評してこういっております。

「さすがは徳川公だけあって、エライお宝をおもちだ。山岡さんという人は、どうのこうのと言葉では言い尽くせぬ が、何分にも府の抜けた人でござる。イヤ命もいらぬ、金もいらぬ、名もいらぬ 、といったような始末に困るひとですが、但しあんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」

<その後>鉄舟37歳の時、西郷隆盛、岩倉具視氏の懇願により明治天皇の侍従となり10年間勤めました。その間天皇の親任は大変厚かったそうです。その後、元老院議員等の要職を歴任し、明治21年7月19日座禅のまま大往生をとげました。その遺骨は自ら建立しました東京都台東区谷中の「全生庵」に埋葬されております。

【小川山岡鉄舟会】入会のご案内

明治維新がほとんど流血を見ずに成立したことは、世界史のなかでも特筆すべき出来事ですが、それを成立させた大きな理由のひとつに、山岡鉄舟の存在があげられます。
 
山岡鉄舟は幕臣でありながら尊王攘夷に動き、西郷隆盛と勝海舟の江戸城明 け渡しの会議を成立させ、江戸城無血開城の道を拓き、江戸を戦火から救いました。まさに、今日の日本をつく りあげた立役者の一人ともいえます。
 
しかし、山岡鉄舟は後世に名を残すことに無頓着であり、今では一般 に知られることも少ない人物です。
 
私たちは、山岡鉄舟の人となりを改めて考えてみたいと思い立ちました。命を懸けて行動した信念、多くの人物を感嘆させた人間としての魅力とその思想、21世紀に入り、私たちはどのように考え、行動すべきなのか、山岡鉄舟の生き方から学ぶことは、今の時代にこそ意義あることではないでしょうか。
 
皆様には、その意義をご理解され、ご参加いただきたくお願い申し上げます。

【名称】   小川山岡鉄舟会
【会長】   東京学芸大学 名誉教授 吉田鷹村(書家・鉄舟研究家)
【事務局長】  八木忠太郎(割烹旅館二葉)
【事務局所在地】  〒355-0328
            埼玉県比企郡小川町大塚32 割烹旅館 二葉内
【年会費】    3,000円
【活動内容】  ●会報 年3回発行
           ・作家神渡良平先生によるエッセイ
           ・会員の寄稿による紙面作り
        ● 交流会・セミナーなどのイベント

申込みは下記までご連絡ください

電 話 0493-72-0038
割烹旅館 二葉  八木忠太郎

現在の鉄舟の取り上げられ方

「現在の鉄舟の取り上げられ方」、特に江戸城無血開城に関しては、公には勝海舟の功績になっていますので、会員の皆様が一番関心のあるところではないでしょうか。

私たち鉄舟ファンに取りましては、江戸城無血開城はなんと申しても鉄舟がいたればこそ成しえたもので、決して勝海舟の偉業ではないことは周知の事実として受け止めています。

しかし、皆様もご存じの通りほとんどと言っていいほど、勝海舟と西郷隆盛が主役になり鉄舟は脇役になっています。

ある本を見ますと「勝海舟・江戸開城と彰義隊の戦い」となり内容は読まずとも何となく察せられます。
まず勝海舟については、鉄舟と西郷との静岡での会談は勝のシナリョウで、鉄舟を派遣し益満を同行させ、ネゴシエイターとしての勝をクローズアップさせています。読む者にとって圧倒的な写真と資料でそれは裏付けされているかのようにうつります。ビジュアルはとても効果的です。

あることを知りたいのだが、そんなに深く知らなくて、うわべだけでよいというとはままあります。ほとんど知らないのですから、一応そこに書いてあることを信用して、知識とします。結構そのことが、影響するように思います。江戸無血開城について知りたい人が、この本を読めばなるほどしかじかで、勝海舟は偉い者だということになるのでしょう。鉄舟のことも比較的に詳しく書いてありますが、物足りません。

手元にもう一冊の本があり、ここでも基本的には勝が主導権をとっている。種本とまとめている方が一緒なので致し方ないのかとは思います。そこに新たに登場しますのが「篤姫」です。今NHKの大河ドラマで放映されていますので、ご覧になられているかたも多いと思います。このドラマは人気がありますので、取り上げるのがグッドタイミングなのでしょう。ここでも篤姫の手紙などを公開し、新説を説いています。篤姫が徳川家の存続に決定的な役割を演じたとしていることは編者としましては、得意のところなのでしょう。私は、実際篤姫の手紙を見たのは初めてなので、大変勉強になりました。西郷は静岡における鉄舟との会談の時に「静寛院宮」(皇女和宮14代将軍家茂の奥方)、「天璋院」(篤姫、13代将軍家定の奥方)の使者が来たことは認めていますが、ただ萎縮しているだけでらちがあかなかったと言っています。 しかし鉄舟についてはやはり物足りません。

さて、西郷が鉄舟と静岡で談判しましたときに、西郷は5の降伏条件を出しましたが、このようなことがすぐに決められたかと以前から少々疑問に思っておりましたところ、「大久保利通文書」と言う本のなかで、このように伝えています。
慶応4年2月の日付で大久保が創案した意見書があり、要約しますと

1. 慶喜の恭順が、事実なら、寛大の思し召しをもって、死を免ずる。

2. 慶喜は備前藩に預ける

3. 城明け渡しのこと。軍艦・鉄砲など武器はもちろん全て渡すこと。

以上の3ヶ条を以て、朝命を早々に実行をし、聞き入れなければ、官軍をもって総攻撃するしかない。
との内容です。あくまでも推測ですが、2月の段階で、西郷、大久保、岩倉など、官軍の最高指導者の間で合意ができていたもようであります。これで謎が少し解けたように思います。3月15日が江戸総攻撃のXデーで、西郷と鉄舟の会談は3月9日です。西郷も10日に静岡を発ち12日に江戸に入り、13.14日は江戸での会談です。鉄舟は図らずもぎりぎりのかつ絶妙のタイミングで西郷と会ったことになります。そのことで慶喜の恭順や江戸の様子がハッキリし、鉄舟の死を覚悟の訴えに西郷が感服し、江戸城明け渡しの条件が受け入れられました。やはり鉄舟でなければなりませんでした。それに慶喜を江戸城から出し寛永寺で謹慎させた勝海舟の考えは(勝だけではないのですが)、卓見だったのですが、これしか方法がなかったのかもしれません。西郷は勝を意識して鉄舟と談判したのだと思います。再前提は慶喜恭順ですから。

尚、江戸での勝と西郷の会談には鉄舟が同席しています。それは、西郷が鉄舟に頼んだようです。

このようなエピソードがあります。
鉄舟が、勲功調査の呼び出しに応じて宮内省へ赴いてから2.3日後。鉄舟の弟子の松岡万が、勝の勲功口述(勝は、江戸無血開城は自分の指示で全て行われたと報告した)の一件を聞き大いに憤り「勝を始末する」と息巻き大騒動を引き起こそうとしたとき。これを鉄舟が感知し彼らに「私は最初から功名に用はないから、それは勝にやるつもりである。ところが貴公達に騒がれてはそうはいかなくなる。つまり、世間からは私と勝との功名争いと見なされる。まあ、こんなことは天に任せて人間は手出しをしないほうがいいのだ」と諭したそうです。

このように鉄舟が認めたことですので、私たちもその思いでまいりますが、この江戸無血開城の事実を伝えるのも私達の使命のようにも思います。こつこつと進んでまいりましょう。気がつけば、この事実が花開くときがあるように思います。

それよりも無私・無欲で公正なリーダーとしての鉄舟を今の日本は必要としているように思います。

「小川町と鉄舟のかかわり」について Ⅲ

【3】小川の書や幟旗について

山岡鉄舟の書は、二葉をはじめ小川町の多くのお宅に残っており、平成3年に小川町で鉄舟の書の展覧会を開催しましたところ100点余りが集まりました。二葉所蔵の一部をご覧ください。
また、鉄舟は小川町に数枚の幟旗を残してくれています。

1. 白鳥神社(小川町の文化財)
鉄舟が幟に直接揮毫したもの。大変大きな布なので、筆などはなく、わらみごを束ねて筆代わりにして、返すとことなどは足で蹴飛ばして書いたといわれています。写真のように現存していますが、かなり傷んでいますので早急な修理が必要です。

山岡鉄舟の白鳥神社(左)・木呂子の幟旗(右)(町指定)
ともに明治13年(1880)山岡鉄舟によって揮毫きごうされたものです。
白鳥神社の幟旗は大祭に際し綿布めんぷ3枚を縫い合わせた幟に直接揮毫したもので、「鴻澤霑民庶」「英霊鎮国家」と記されています。木呂子の幟旗は、旧木呂子村の参道に立てるために、和紙に直接揮毫したもので、「天得一以清」「地得一以寧」と記されています。 鉄舟は、父小野朝右衛門が木呂子村の知行主だったため、小川周辺に幾度となく通ったと伝えられています。

2. 吉野神社(小川町の文化財)
白鳥神社の幟を見た人々が是非鉄舟に頼みたいと揮毫してもらったもの。こちらは和紙に書かれ、現在小川の図書館に保管されています。

3. 飯田神社
白鳥神社の幟をコピーし、年号だけ鉄舟に書いてもらったと思われる。

4. 東照宮
白鳥神社の幟をコピーし、年号だけ鉄舟に書いてもらったと思われる。
   
5.東秩父村について
小川町の隣村ですが、埼玉県で唯一の村です。この村の八幡台神社にも
鉄舟の幟が残っていて、吉野神社の幟をコピーし、年号だけ鉄舟に書いてもらったと思われる。

このように鉄舟は小川町にいろいろな遺産を残してくれました。これから詳しく調べると面白い逸話などが聞けるのではないかと楽しみです。新しい事実がでましたらブログでお知らせしていきたいと思います。

「小川町と鉄舟のかかわり」について Ⅱ

【2】割烹旅館二葉の名物「忠七めし」について

「忠七めし」は気骨ある料理人だった当家八代目館主・八木忠七と山岡鉄舟との出会いから生まれました。

鉄舟は父の知行地・小川町竹沢を訪れる折々、必ず当館に立ち寄られ忠七の調理する料理を食べながら酒を飲まれるのが常だったという事です。ある日、忠七に向って居士は「調理に禅味を盛れ」と示唆され、それを受けた忠七が苦心に苦心を重ねた上創始致しましたものが「忠七めし」です。

鉄舟が極意を極めた「剣・禅・書」三道の意を取り入れ、日本料理の神髄である「風味と清淡」とを合致させたものでこれを鉄舟に差し上げましたところが、「我が意を得たり」と膝を打って喜ばれて、「忠七めし」と名付けてくれました。

割烹旅館二葉 国有形文化財の本館
割烹旅館二葉は1748年創業。江戸時代から続く老舗の割烹旅館として知られ、明治維新で江戸城無血開城に貢献した幕臣の山岡鉄舟や、人間国宝の陶芸家石黒宗麿ら著名人も足しげく通った。
現在の本館は1933年に建てられたもの。瓦葺き木造二階建ての数寄屋造りで、江戸の面影を漂わせる外観。現在の技術では再現不可能という、鉄さびを塗り込んで作られた「さび壁」などがある。

「小川町と鉄舟のかかわり」について Ⅰ

【1】山岡鉄舟について

山岡鉄舟は本名小野鉄太郎で、山岡家に養子にいきましたので山岡鉄太郎です。

小川町には小野家の知行地があり、140石位でした。総高約900石で、紹介には600石とありますが、埼玉県県史編纂の知行調べを見ますと900石になっています。当然鉄舟は小野家を相続しておりませんので、知行調べには名前は出て参りません。小野家の知行は埼玉県小川町をはじめ寄居町・茨城県鹿島市に渡っています。

さて、鉄舟の一生を振り返ってみましょう。

幕臣時代
天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に御蔵奉行・小野朝右衛門高福の五男として生まれる。母は鹿島の塚原磯女。9歳より久須美閑適斎より神陰流剣術を学ぶ。弘化2年(1845年)、飛騨郡代となった父に従い、10歳から17歳までを飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に書を学び、15歳で52世を受け継ぎ、一楽斎と号す。また、父が招いた井上清虎より北辰一刀流剣術を学ぶ。嘉永5年(1852年)、父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政2年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山に槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて山岡家の養子となり、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚。身長六尺二寸(188センチ)、体重二十八貫(105キロ)と当時としては並外れた体格であった。

安政4年(1857年)、清河八郎ら15人と尊王攘夷を標榜する「虎尾の会」を結成。文久3年(1863年)、浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍・徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きに警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。浪士組は新徴組として再組織される。この頃、中西派一刀流の浅利義明(浅利又七郎)と試合をするが勝てず弟子入りする。

慶応4年(1868年)、精鋭隊歩兵頭格となる。3月7日に江戸を戦火から救うべく、徳川慶喜の命を受けて薩摩藩士益満休之助を伴い、決死の覚悟で3月9日官軍の駐留する駿府(現在の静岡市)にたどり着き、単身で西郷と談判。このとき、官軍が警備する中を「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大音声で堂々と歩いていったという。 西郷との談判において江戸無血開城の基本条件について合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させた。3月13日・14日の勝海舟と西郷隆盛の江戸城開城の最終会談にも立ち会った。ちなみに江戸総攻撃の日は3月15日であった。5月、若年寄格幹事となる。

明治維新後
明治維新後は、徳川家達に従い、静岡県に下る。静岡藩権大参事(副知事)となり、清水次郎長と意気投合、「精神満腹」を揮毫して与えた。お茶の開墾にも力を注ぎ、茶処静岡の基礎を作った。明治4年(1871年)、廃藩置県に伴い新政府に出仕。茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られている。宮内大丞、宮内少輔を歴任した。明治15年(1882年)、西郷との約束通り致仕。明治20年(1887年)5月24日、功績により子爵に任ぜられる。

剣・禅・書の達人として知られる。明治維新後も剣術の修行は続けており、明治13年3月30日大悟の後、浅利義明より一刀流の免許皆伝を許され、一刀正伝無刀流(無刀流)を開いた。現在は第七世が継いでおられる。

独特の書風を確立し、人からの依頼が多く、また書を以て各地の廃寺を再興したりで、全国で鉄舟の書を見ることができる。一説には生涯に100万枚書したとも言われている。 写経は欠かさず、死の前日まで行っていた。

また禅は13歳のころより志す。参禅は、埼玉県芝村(川口市)長徳寺・願翁、静岡県三島の龍沢寺 星定和尚、京都相国寺・独園、同天龍寺・滴水、鎌倉円覚寺・洪川の五和尚に参じ、明治13年3月30日大悟し、天龍寺・滴水和尚の印可を受ける。禅の弟子に三遊亭円朝らがいる。明治16年(1883年)、維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に普門山全生庵を建立した。明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌であった。享年53歳。全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。全生庵には、鉄舟の書をはじめ牡丹灯籠などの怪談落語を確立した三遊亭円朝が収集した幽霊画が所蔵され、一般に公開されている。

ところで、いつも疑問に思いますのは、鉄舟関係の本の中で小川町がほとんど取り上げられていないと言うことです。今まで著者の方に情報が届いていなかったので致し方ないと思いますが、不思議なことです。

さて、鉄舟がいつ頃小川町に来ていたかは定かではありませんが、鉄舟のひ孫で先年亡くなりました小川町在住成川勇治氏の話を元に推測いたしました。

1. 成川勇治氏の父は成川武男と言いまして山岡直記の子供でしたが、故ありまして2歳の時(明治27年生まれ)小川町の鉄舟の知行地の名主成川家の長男成川忠治郎が東京から連れてきました。

成川武男は山岡姓でなく成川姓で成人し結婚しました。その長男として生まれたのが成川勇治氏です。勇治さんは義理のおじいさんの忠治郎さんから鉄舟のことよく聞いていたそうです。子供の頃で、正確ではないと思いますが。

2. 鉄舟は22~24歳頃から小川によくきていたそうです。書道用の和紙を求めたのか(小川は和紙の産地です)。食料調達か。鉄舟が30歳位の時に、忠治郎が16歳で鉄舟に弟子入りしたそうです。当然弟子に食べさす米などないので、よく小川から米を運んだそうです。

3. それから清川八郎が暗殺された頃、鉄舟もクローズアップされたので、刺客に狙われていたそうで、その時小川に身を隠していたとも言われています。たぶん知られていない土地だったのでしょうか。

4. 鉄舟は忠治郎にお前のふるさとは良いところだ、一緒に行きたいものだとよく言っていたそうです。それが実現したのが、明治元年です。彰義隊と新撰組の残党が埼玉県の飯能市に結集し政府軍と激しい戦いがあり、「振武軍」500人・官軍3000人でした。この戦いを飯能戦争と言います。最後には鉄舟がおさめにきたようでした。  

そこで後年商人で大成功します平沼専造に会います。本によると専造とはもっと後に会うことになりますが。専造はここで木材を運ぶ「木流し人足の元締め」をしていました。そしてその時忠治郎と共に小川に入りしたそうです。

5. 鉄舟の長男である直記も度々小川町を訪れていたようです。直記の書なども残っておりますが、目立った話は残っておりません。

小川山岡鉄舟会の趣旨

明治維新がほとんど流血を見ずに成立したことは、世界史のなかでも特筆すべき出来事ですが、それを成立させた大きな要因のひとつに、山岡鉄舟の存在があげられます。

山岡鉄舟は幕臣でありながら尊皇攘夷に動きました。その後徳川慶喜の命で、単身駿府の西郷隆盛を訪ね、決死の談判の結果、江戸城明け渡しの会談を成立させ、江戸城無血開城の道を拓き、江戸を戦火から救いました。まさに、今日の日本をつくりあげた立役者の一人ともいえます。

しかし、山岡鉄舟は後世に名を残すことに無頓着であり、今日では西郷隆盛、勝海舟と比べますと知名度は余り高くありません。

私たちは、山岡鉄舟の人となりを改めて考えてみる必要があることに思い立ちました。命を懸けて行動した信念、多くの人物を感嘆させた人間としての魅力とその思想。
21世紀に入り、どのように考え、行動すべきなのか、山岡鉄舟の生き方から学ぶことは、今の時代にこそ意義あることではないでしょうか。
 
しかし、剣・禅・書などを研究する会ではないので、山岡鉄舟がお好きな方でしたらどなたでも結構です。

小川山岡鉄舟会

小川山岡鉄舟会ブログにアクセスしていただき、誠にありがとうございます。

名称の小川山岡鉄舟会は、埼玉県比企郡小川町に事務局があります。全国に約100名の会員の方がいらっしゃいます。

私は事務局を担当しています八木忠太郎(割烹旅館 二葉 館主)と申します。

この会は、この小川町及びこの地にあります割烹旅館二葉と山岡鉄舟先生が大変ご縁が深いことと、西暦2000年(平成12年)10月5日に日本経済新聞社の文化欄に寄稿した私の「剣豪鉄舟、わが町で雄筆」が掲載されたのがきっかけその年の11月に発足しました。

会長には書家で山岡鉄舟研究家、東京学芸大学名誉教授吉田繁氏をお迎えしましております。